なつかしくてもう会えずに
イギリスにもどる飛行機のなかで『ドライブ・マイ・カー』を観た。おもしろかった。たばこのプロモーション・ビデオかよ、とツイートした。劇作家とドライバーがセックスしないでいてくれてよかったが、ハグはどうかとおもった。自分なら、肩を抱くだけにしたとおもう。
ドライバー役のひとのことが気になって調べた。歌をうたっていて、カバーアルバムとオリジナルのミニアルバムを出していた。カバーアルバムを頭から聴いていった。三曲目の「Precious Memories」は知らなかった。歌詞が好きになって、繰り返し聴いて、寝る前にも聴いた。
次の日に原曲も聴いた。原曲はglobeのものだった。Apple Musicで聴いていたので、聴きながら歌詞を見た。《なつかしくてもう会えずに》だとずっとおもっていたサビのところの歌詞が、《なつかしくても会えずに》だったことに気づいた。信じられなくてGoogleでも歌詞を調べた。
いくら聴いても《なつかしくてもう会えずに》と歌っているように聴こえる。《なつかしくてもう会えずに》であれば、なつかしすぎて会えない、というか、The memories are too precious to see you. というか、とても自分の好みではあるが、そうではないらしい。
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それがなければ、わたしたちの生命にはなにも可能にはならない。わたしたちに生じるすべてのことは、それと混じり合い、その内部において生じなくてはならない。それ、つまり呼吸こそが、あらゆる高等生物の最初の活動、存在と一体であるといえる唯一の活動なのだ。わたしたちを辟易させない唯一の活動、活動そのものの他に目的をもたない唯一の運動である。わたしたちの生命は(第一の)息吹で始まり、(最後の)息吹で終わる。生きるとは、呼吸をし、自分自身の息吹に世界の原材料をすべて取り込むことにほかならない。
視覚もまた呼吸である。光を、そして世界の色彩を受け容れ、世界の美しさに貫かれるがままとなれるだけの力を得て、世界の一部分、そのほんのごく一部分のみを選択し、かたちを作り上げ、世界の連続体からかすめ取ってきたものをもとに生命活動を促すのである。
だが呼吸の原初的な属性、いっそう逆説的な属性はその非・実体性にこそある。呼吸は他から分離できるような対象ではなく、あくまで振動にすぎない。あらゆる事物が生命に開かれ、ほかの対象と混じり合うような揺れ動き、ほんの一瞬のあいだ、世界の原材料を活性化する振動だ。
わたしたちが生命と呼ぶのは、ほんの一部分の物質が世界から区別される際のその身振りのことであり、その区別には、生命が世界と混合するときに用いられる力と同じ力を伴う。息をするとは世界を作ること、世界に溶け込むこと、そしてその永続的な営為の中で、自分のかたちを再び描き出すことをいう。
世界を住居とする数知れない存在、この上ないほどに多様で比類なき事物、最も遠く隔たった時間と空間、両立などとうていできないような複数の現実同士など、いずれもが呼吸の無限のかたちから自身の統一性を引き出している。それらはみな、一つの世界へと互いに溶け合っている。あらゆる異なるものの上位にある統一性、存在するものと存在しないものの上位に位置する越えがたい統一性として、世界は呼吸のもとに、呼吸としてのみ存在する。
以下から引用。
II 葉の理論──世界の大気
8 世界の息吹
天啓
アガンベンは『身体の使用』を考えるにあたって古代ギリシャにおける主人と奴隷からサドマゾの倒錯を経てスピノザの自分を散歩につれてゆく=散歩する(中動態)に至る わたしはわたしの身体の所有者ではなく使用者である? いぬの散歩を思う
いぬの散歩をしたことはないが一般に主人はリードを握る側だろう しかしいぬにまかせて主人が歩かされているようすを見ることは往々にしてある 主人はいぬの世話をする 電信柱へのおしっこは水で流しうんちを持ち帰ることはマナーになっている いぬが元気でいることは家柄としてはかられている
ギリシャ語のクレースタイ/クレーシス これは基本的には「使う」と訳される これは、人が自分自身と取り結ぶことのできる関係において用いられる たとえば「情熱を使用する」は情熱は外に向けられるのではなく「情熱にわれを忘れる」ということを意味する それは態度で、ある生のありかたである
つまりクレーシスは「召命」 わたしはわたしをそのようなものとして構成する=生きる アガんべんは過去にこれをパウロ書簡から読み解いていた
わたしはわたしとわたしのいぬを散歩に連れていく=わたしたちは散歩する 散歩においてはわたしがわたしの身体を使用することは同時にいぬの身体を使用することと一体となっていて、というよりいぬが自身の身体を使用することが主人であるわたしの身体を使用することになる
いぬは生きていると同時にその身体を使用される いぬの存在を主人は引き受ける 引き受けるとは享受するということだ いぬは生きている 究極は、それだけでいい
ある祭りにおいて、祭りの期間中は主人と奴隷はみずからのその役割を逆転する いぬとわたしの逆転はありうるだろうか そもそもどちらがみずからを散歩につれていくのか いぬを散歩するのかわたしは散歩させられているのか
中動態ということに立ち返ればアガンベンのいうように使用することのできる身体を2つもつわたしが動作主として立ちあがる いぬとわたしの関係をそのように召命的に生きること
そのときいぬとわたしはなんであれかまわない生だろう いぬとわたしは散歩にいく
日記63-64
気づいたときには遅すぎて
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乳児殺害、虐待受け続けた末 義父の子4度妊娠:朝日新聞デジタル
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母よ
身長100cm、体重20kgの2児の母が力説「障害者にこそ子育てをすすめたい」 | 週刊女性PRIME [シュージョプライム] | YOUのココロ刺激する
あとでよむ
おお
AI:誤って「回転」と錯視…人間同様に 立命大など発見 - 毎日新聞
しらなかった
フィリピンの街角にある「みんなのバスケットコート」がぼくらに教えてくれること|WIRED.jp
いかん
中国、「社会信用度」の低い国民の鉄道・航空機利用を制限へ(塚越健司) - 個人 - Yahoo!ニュース
日記61
「さらに、鳥が水を泳ぐ魚を内包し、空においてそれを実現するとともに、魚が空を飛ぶ鳥を内包し、それを水のなかで実現することで鳥と魚の経験が交換されるようにして、アラウェテの社会における戦士の経験と、この社会における「このわたし」の経験とが交差するような、経験の交換が可能になるための、試み、検証、そして再びの試みと検証の持続的な営為こそが、芸術と呼ばれるものの実質ではないでしょうか。」
「幽体離脱の芸術論」への助走 – メディウムスペシフィックではないフォーマリズムへ向けて / 古谷 利裕 | ÉKRITS / エクリ
日記60
分析された