プラネタリウム

わたしたちが魚の目で泳いでいるとき、南極は白夜と極夜を往き来している。凍てつく大陸の足下には湖が広がっていて、見上げると沈んでいく体を感覚する。水面が揺らめき、ぽつぽつと星々が瞬く。波はだんだんと薄らいでいく、無数の点滅が繰り返されている。波間がいつのまにか夜空になる。あちこちでそれぞれの光がひかり、いくつもの目がそれらを見つめている。紫色の雲が流れ、緑色の夕焼けが白い氷に反射する。体は水中に沈んでいく。天蓋が遠のき、わたしたちは宇宙に沈んでいる。すべての満天が星空か暗闇で埋め尽くされる頃に南十字座南極星になる。

夢を見た。彼女は隣で寝ているのに彼女が「ただいま」と言ってバイトから帰ってきた。ぼくは帰ってきたほうの彼女を追い払う。夢から覚めても彼女は隣で寝ている。ほとんどの場合このように彼女は隣で寝ているので、ぼくは隣で寝ている彼女を信じて帰ってきた彼女を追い払ったが、あとで、帰ってきた彼女を追い払う理由が見つけられなくなった。

他にも幽霊をたくさん見た。みんな見た目はふつうだが、生きている人間とは距離をおいて歩いている。たとえば、高架下の歩行者専用のトンネルで、少女(高校生くらい?)は手を繋ぐ下の二人の妹のあとをつけていた。三姉妹なんだからみんなで手を繋げばいいのに、と思ったぼくは少女の手をとっていて、すると少女はなにか言った。なにか言って、よくある幽霊のイメージのうちのひとつ、立体映像のように右腕を物が通過するさまを見せてくれた。少女は笑って、ぼくがつかんだ感触を確かめるように右手でぼくの首を絞めるふりをして、ぼくはきっとやれやれという顔をした。少女がなんと言ったかは忘れてしまった。

足がある、ということを考えていた。手のように簡単に触るわけにはいかない。少女も気づいたようだった。彼女の足に強い視線が注がれていた。気持ち悪い、というようなことを言われた。

「箸の持ち方って誰に習った?」ぼくは彼女に訊いてみたことがあった。

「おかあさんか保育園の先生だと思う」と彼女は言った。ぼくは誰に習ったんだろう。もし母親に習っていたのだとすると、息子がおかしな箸の持ち方で何年間も目の前で食事をしているのに一言も注意しないのは変だ。もしかすると、息子が気にも止めないやり方で矯正しようと努めてくれていたのかもしれない。ぼくは気づかなかった。いつだったか両親が離婚して、それからは母親といっしょに食卓を囲むということがほとんどなくなってしまったため、箸の持ち方のことはしばらく忘れられていた。ぼくはぼくで、この持ち方は他のひとにはできない、ぼくができるのは手先が器用だからだ、などと思っていたので、自分でなおすという気はまったくなかった。だからって、誰にも指摘されてこなかったというわけではないはずだ。

「年少さんのときに習うのかもしれないね」と彼女は言った。たしかに、こども教室に通っていたぼくは年中から幼稚園に入った。でも、年中でも年長でも注意されたことがあったのかどうか。ぼくとしても、当時の自分がどのような言葉をしゃべっていたか、周りからどのように語りかけられていたのかということについてははっきりとしたことはなにひとつわからず、思い出せるのは、はじめて箸の持ち方ということについて自分がなにか考えたとすれば、小学校一年生のときに教室の壁に貼ってあったポスターだった。そこには正しい箸の持ち方が描かれていて、ぼくはその正しい持ち方をイメージしてみたものの、手元に箸がなかったので再現することもできず、掃除の時間が終わったので掃除用具をかたして、すっかり次のなにかに心移りした。その日、家に帰ってからの夕食の時間、次の日の学校での給食の時間にはポスターのことはすっかり忘れられてしまって、それ以降、そのポスターも見かけなくなった。

小学校5年生の終わりまでの何年間か、いつから始まったのか思い出せないが、たしかに毎週火曜日と木曜日にスイミングスクールに通っていた子どもの頃のぼくは、すっかり泳ぎが得意になって、「かつてあなたは魚だったよ」と言われていい気になっていた。子どもながらに、その主張には説得力があると感じていた。魚の鰭が進化して人間の手ができたのだと図鑑に書いてあったし、手は水を掻くのにあまりに適していたため、つい最近まで自分は魚だったと簡単に考えることができた。鰭が手のように開いたり閉じたりするさまを図鑑と見比べているあいだに食卓の焼き魚は冷めて、母親によってすっかり骨が取り除かれてしまうので、ぼくは大学生になるまでひとりで焼き魚を食べることができなかった。

また別の日には「海坊主みたい」と言われていい気になった。プールでは向かうところ敵なしだった。事実、流れるプールでは流れに逆らって泳ぐことができた。手を使わずに泳いだり、足を使わずに泳いだりして、より海坊主っぽい気分になったりした。いま、どこまでできるかわからない。