あくび

あくびがうつるというのは、さまざまな実験により、科学的に証明されています。人と人の間はもちろんのこと、動物のあくびが人にうつったり、動物によっては人のあくびがうつったりすることもあります。

あくびがうつるのは本当だった! あくびがうつる理由を紹介

つまり、感情移入ができるほどの他人への関心と共感性があれば、小さな子どもでも、動物でさえも、もらいあくびをするのです。

あくびがうつったから、なぜあくびがうつるかを調べた。実家のねこがあくびをしているのを何度か見たことがあったが、そのとき自分はあくびをしていただろうか。

たまたま自分と誰かが同じタイミングで眠かったのではなく、あなたのあくびが誰かのあくびを誘発しているのです。

たまたま自分と目の前の誰かが同じタイミングで眠かったから、共感するのではないか。電車にのっているおじさんもさっきまで寝ていた道ばたのねこもみんな、あくびをしたときはたまたま眠い。

マイクチェック、マイクチェック

このところ、フリースタイルバトルの動画をたくさん見ていた。あたりまえだけど、どもったり言葉が出てこなかったりしても、誰もなにも言わない。サ上さんがだいたいいつもテレビ的な演出で負けるのがおもしろい。R-指定さんはほんとうにすごいと思う。番組には出てないけど呂布カルマも好き。フリースタイルとは無縁らしいD.Oさんは、高一のときに滝行を体験した秩父の山奥の民宿で知って驚いた。みんなキャラ付けというものをよく理解して実践している。

死ぬまでにタトゥーを入れてみたい。 https://youtu.be/wI9Bk6uedVo

たぶん、あなたは小説を読むことには興味がない。書くひとだから、そのひとがどのように書いているかを知りたいんだよ、と言った。

いぬのせなか座 2号 蔵出し

いぬのせなか座 2号 の詳細はこちら works|いぬのせなか座

先日、地点という劇団の『スポーツ劇』(作:エルフリーデ・イェリネク、演出・構成:三浦基、音楽監督:三輪眞弘、KAAT 神奈川芸術劇場他)を観ました。

話としては、戦時下に暮らすスポーツ選手やその家族、恋人、友人たちの長い(よくわからない、わかりようもない量の)モノローグがえんえんと続くもので、役柄はギリシア悲劇の登場人物たちがモチーフになっているらしいんですが、正直あんまりよくわかりませんでした。

演出家の三浦基さんが言っていたように、日本にはキリスト教というか一神教が遠いのと同じようにギリシアの劇作が遠いからとか、話の難解さについては、それこそが人間の難解さであり、わからないという根源的なもののあらわれだとかが言われると思いますが、お話の内容というよりは、舞台装置とか音響効果(というより音楽装置)とか、役者さんのからだの使い方に興味を持ちました。

舞台は床から天井まで伸びる急勾配の人工芝の坂であり、舞台から観客席を分け隔てるようにバレーボールのネットが横断していて、ネットを張るポールの根本にZAVASの赤いボトルが右端と左端に置いてあります。音楽装置コロスはオペラ席と言えばいいのか、観客席を囲むように中二階の右端と左端にいて、リレー走で使うバトンのような筒状の楽器を持っています。またそれぞれのメンバーは定められた入力先と出力先のメンバーをおのおの持っていて、音を出すタイミングを他のメンバーから引き継ぎ受け渡していくプログラムを実行しています。

役者さんは中盤くらいまでずっと、ひとりずつ反復横跳びをしながら長々としゃべります。一文は反復横跳びのリズムで組み立てられています。ある一文のセリフはセリフ自体の境目で区切られるのではなく、それを発声する役者さんのからだの動きによって制限されます。

反復横跳びのリズム、右にいったり左にいったりする動きのあいだにセリフのひとかたまりは埋め込まれなければなりません。また、反復横跳びを繰り返すうちに息切れしていく、その息切れもまたセリフを制限し、かつ役者さんの動きをも制限していきます。長回しのモノローグが終わると別の役者さんがしゃべりだします。さっきまでしゃべっていた彼や彼女らはクラウチングスタートの姿勢でしゃがんだり、寝転んだり(やはり相当疲れるからか、ほぼほぼみんな寝転んでいるのですが)、おそらくあらゆるスポーツの一瞬間で停止しており、次の役者さんが反復横跳びをし、動きしゃべりだします。現にいまそこでしゃべっている彼や彼女より、寝転んで肩で息をしているさっきまでしゃべっていた彼や彼女らのほうが気になってしまいます。腕や脚や肩が雄弁になにかを語っているのを私たちはよく見ようとする。

このような身体とセリフ自体のちぐはぐさ、ばらばらな動きがひとつの私として、また、ひとりの人間である私と役としての私が、それらのひとつの肉体としてそこにある。そもそも演劇それ自体が複数の私の集まりで構成されている。日記の話で言えば、見るからに、役者さんたちの動きはよく訓練されたものであることがわかります。上演中、長い時間をかけて行われた稽古での役者さんの蓄積が思い出される。同時に、どこかで見たことのあるようなスポーツ的な身体の動きが、それを見ている私たちの身体や歴史を思い起こさせる。あれは反復横飛びだと思ったり、テニスのラケットを振っているんだと思ったり、サッカーボールを蹴っていたり、アイススケートのダンスだったり、舞台がスキーのサマージャンプに見えたり、スノーボードハーフパイプに見えたり、バレーボールのネットだったり、バトミントンのネットだったり。

それらすべては、それを見ている私たちそれぞれに身近だったスポーツの経験やものごととのかかわりで見えてくるものになっています。そういう意味で、あの演劇は役者さんたちの日記であり、私たちの日記として見ることができたと思っています。

合宿

いぬのせなか座 2号 の合宿(通い)が終わった。あとは座談の収録が残ってる。

家に帰ってきて読んでもらっていて、2号 に載せる日記のなかに下の話を書こうと思っていたのを思い出した。

イルカの目を持つ人間の子どもたち。日々の大半を水中で暮らす海の遊牧民、モーケン族(タイ) : カラパイア

人間はこのように、かんたんに進化することができる。

書かれていないことがいくつもあるけど、それが書かれる筋合いはないと言っている。

日記なのでわりと気楽に書いたそれぞれの部分から、思ってもみないつながりを見つけて、「気がする」で終わるのがうざいと言っている。

すごくおもしろいような気がしてきたとも言っている。本だったら独立した紙面が続いていて、文章が長く続いているから一連のものとして読めるけど、紙としては断裂している。でも一枚の紙なら、日記のこの欠落が他に書かれたものと従属的ではないしかたで参照しあい存在できる、と言っている。

座談は別の紙にする、と言ったら、もっとでかい紙をつかえばいいじゃん、一枚の紙におさめたほうがいいと言う。むずかしい、と言うと、それなら展示しろ、と言っている。おもしろいと思う。このひとはひとつものが与えられるとすごくしゃべれる。

『スポーツ劇』

スポーツ劇 見ました 安全装置であるネット(スクリーンまたは三途の川?)と芝生の坂の舞台が遊び場としていいなと思った次第です。

反復横跳びと謎の単位で振り回される腕(たまに足)と韻を踏むわけでもダジャレでもないことば は俗物的なものでありアクチュアルなものだった アクチュアルというのはオリンピックとか集団的自衛権とかではなくて(それはただの問題であって)そこに動く身体があるということがアクチュアルだった。

ゾーン=レーテル〔哲学者アルフレート・ゾーン=レーテル〕によれば、ナポリ人にとっては事物は壊れてはじめて機能しはじめる。このことが意味するのは、ナポリ人は事物が機能しなくなってはじめて、技術的な物を本当に取り扱いはじめるということである。それ自体としてはきちんと機能している手つかずの事物はナポリ人を苛立たせる、おぞましいものである。ともあれ、ちょうどいい場所に木片を差しこんだり、ちょうどいいタイミングで蹴りを入れたりすることで、ナポリ人は自分のちょうど望むとおりに物を働かせることに成功する。哲学者ゾーン=レーテルによれば、この振る舞いは最高の技術論的パラダイムを含意している。すなわち、本当の技術が始まるのは、人間が機械の敵対的・盲目的な自動性に対立し、機械を思いがけない領域上へとずらすときである。ナポリの街路でバイクのエンジンをクリームミキサーへと変容させていたあの少年のようにである。

そう考えるとセリフはわからないものとしてわかる感じで、ほんとうにわからないのは三輪眞弘さんの音楽装置だったり俳優さんの動きだった。

これら〔演劇における、俳優という生きた有機物とともに演じはじめる生きている物(ビオ-オブジェ)〕に応ずるのが、舞踊手の身体から離反して自分で演じはじめる手や足である。ここではもはや、物のシュルレアリスム的な転用におけるような、乗り越えるべき美的境界線などは問題にならない。問題となるのは身体の新たなテクノロジーである。というのも、そこでは身体が一人称で含意されているからである。そこでそのつど創造されるのは、身体と物とからなる新たなシステムである。そこで物が機能しはじめるのは、それ固有の機能を喪失し、身体とともに創造的な無差異の地帯へと入るときである。

ジョルジョ・アガンベン「来るべき身体」(『ニンファ その他のイメージ論』高桑和巳、慶應義塾大学出版会)

ある日

目が覚めると電車のなかだった。通勤の途中だった。南砂町から浦安までの車窓だ。朝はいつも快速に乗るので現在地はあやふやだった。周囲の建物が低く、天気がいい日も悪い日も見通しがよかった。川が大小三つある。ひとつは浦安の向こうだったかもしれない。なかには船が泊めてあるものもあって、おそらくもっと早い朝の時間に漁を終える。魚が泳いでいるところを想像した。

今日は天気がよかった。ここ二三日、目的地に着くまでぼうっと空を見ている。綿雲が止まって見えたのは、あるいはずっと電車のあとを追けてきていたのは、昨日だったか今日だったか。これを書いているいまは水面に跳ねる魚を思っている。実際に見たことはないと思う。あったかもしれない。窓の向こうに伸びる水面から一匹の魚が飛び出すさまを想像した。光の反射でまぶしくてよく見えなかった。