上田岳弘『私の恋人』

1716年、吉宗が徳川幕府8代将軍となった。享保の改革に着手し、この島国の黎明期をつくった。若冲が生まれたが光琳が死んだ。彼らのすばらしい絵画はいまでもなまで見ることができる。海の向こうの遠い場所でライプニッツが死んだ。人間のものごとのいしずえになったと言える時代だった。

1616年もまたすごい時代だった。セルバンテスシェイクスピア、家康、お幸が死んだのだ。ひとつの時代が終わった、と後の世の人々は何百年たっても口をそろえて言い続けた。

10万年前のホモサピエンスはまだアフリカ以外の土を踏んだことがなかった。温暖化にともなう海面の上昇で住める土地が少なくなってきた。大きな火山が噴火した。それから10万年たったいまでもあのときの噴火がいちばんだったと人々は言った。あつくなったりさむくなったりして、みんな服を着るようになった。この状況に適応するため、ひとつの虫がしずかに進化していた。10万年間続いているホモサピエンスは2万5千年前に火をつかうことを覚えたばかりだった。7万年後に絶滅するネアンデルタール人は16万年間続いた。いちばんふるい絵画がこの時代のものだった。だれもかれもが忘れてしまってから3万年がたっていた。描かれた理由もどのような意味が込められているかも、もはや知るものはいなかった。海と大地だけが、なにが生きてなにが死んだかを覚えていた。北極星はまだ北極星ではなかった。

制御棒処分、70m以深 国の管理10万年 規制委方針:朝日新聞デジタル

180日がたとうとしている

カレンダーが止まっている。画質はスマホだと気にならなかったけど、写真とクッキーで楽になると思っていた。その地平に着いたとき、いったん家に向かうも、読まなきゃいけない気がするって言われた感じではあった。この車両にはないことを決めたけど、すごいしっかりとしたサポートの乗りものはいけない、みたいな技術を食べる。まだ九段下だから、この上なくもろくはかないきらめきは一日の休みではないように、すべての顔ぶれがこっちを見せるようなことはできないけど、やっぱりわたしはねぇ、ほかのがいいなぁ。

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ある女が人殺しで、自分はその女の家にいて、親やほかの誰かにバレないようにどうしようかというときに弟が帰ってきた。めがねをかけていなかったのでかなり昔のまだとても幼いときのような顔をしていた。自分が焦っていることに気づいた瞬間に弟の部屋の机の下に死体があることがわかって、あわてて飛び出していくと、勉強机の下で麻の袋のようなものにくるまった なにか が少しだけ動いていて、動きを止める必要があると思い袋をはがし、首のうしろにあるふたをあけて電池パックを取りだし、自分の部屋にもどってベランダから投げ捨てた。人形はもう動いていなかったし、人殺しの女もどこかにいってしまっていた。それから時が経って、いつのまにか安達祐実のような女の人と懇意になっており、駅かどこかで待ち合わせをしていた。彼女の家にいくことになり、なんやかんやあり(忘れた。おぼえてない)、彼女の家は苔むし影がひしめく古民家のようなところで(だれかが倒れていた気がする……それをまたいで)めまいがして、壁や柱にもたれながら なにか から逃げるように歩いているとき、振り返ると鬼のように笑う顔がある気がしていた。復讐だと思ったんだ。

ゆとりですがなにか

父親との思い出、と言って思い出すこともあまりなく、かと言って恨んでいるということもない。

池袋のジュンク堂のうらの、いったことのない喫茶店で、最近のはやりだという角砂糖を見て、角砂糖は個別に包装されているものなのかもしれないと思っていると、彼女のおねえさんが最近のはやりなんだよと教えてくれる。裏返すと外国製で、コストコあたりで仕入れているのかもしれないと思った。むかし父親に車屋さんにつれていってもらったときのことを思い出していた。つれていってもらったはずだが、ついていった記憶がなく、どうやってそこにいったのか、どうしてそこにいたのか覚えていない。あのときふたりだけで車屋さんにいて、ただ向かい合って座っていただけだったが、車を買い換えたのがあのときだったという話も知らない。

なんらかのタイミングで、向かい合って座っている父が、ガムシロを水に入れるとあまくなってうまいというようなことを言ってきて、あたりまえだろと思いながら、客に対して差し出された水に砂糖を入れて飲むというバカバカしさがうらやましくなり、やってみないと気がすまず、ガムシロを水に入れて、きれいに分離しているのを見ながらストローでかき混ぜて飲んで、あまくて、あたりまえだよなと思った。

柳楽優弥の演技に泣きそうになった。親は親らしくしろというのはそのとおりだ。子は親を選べないと言っていたが、ほんとうは親も子を選べないはずだ。人間は人間を選べないから。吉田鋼太郎がちゃんと毎回からんできてくれてよかった。

安藤サクラがなんらかの秘密を暴露するところから来週の最終話がはじまる。上司とセックスしたことか、それが原因で赤ちゃんが、のどちらかだろうと話していた。赤ちゃんだとすると、上司とラブホのあとに岡田将生ともやってるから実は彼の子でした~というオチにしてもつじつまがあう。だとしたら遺伝子検査をするのかという話になってくるが、おなかのなかの赤ちゃんにそれは可能なのか。いま思ったけど上司とはやってないのではないか。まーちんが早とちりというスジ。

傷心旅行としてあかねちゃんとやまじはふたりでひとつ屋根の下で、やるのかやらないのかという話をしていた回のセリフで、「言わなきゃわからないよ」というのがあって、これじゃなきゃいけなかったんだという話をした。言ってくれなきゃわからないよ、という一方的な受け身ではなくて、話者と対象がつねに入れ替わる。自他だけでなく、他のなかでも対象が入れ替わる。主体がわからなくなる。

「(あなたが)言わなきゃ(わたしは)わからないよ」

「(わたしが)言わなきゃ(あなたは)わからないよ」

「(わたしが)言わなきゃ(あのひとは)わからないよ」

「(あなたが)言わなきゃ(あのひとは)わからないよ」

「(だれかが)言わなきゃ(あいつは)わからないよ」

「(だれかが)言わなきゃ(だれにも)わからないよ」

これが、あかねちゃんがほんとうはどういう気持ちなのか、安藤サクラの演技からぜんぜん読みとれない理由かもしれない。ストレートに伝わる(舞台的な?)柳楽優弥とは違う、素人っぽさ。ほんとうの人間っぽさ。安藤サクラの秘密の演技。

言ってくれなきゃわからないよ、と言うのがふつうの人間だと思う。かと言って、口にしたことすべてがほんとうのことになるわけでもない。わかるのは、だれかがなにかを言ったこと、やったらしいこと、それを想像できること、想像できないこと、わからないこと、わかりそうだということ、……

あくび

あくびがうつるというのは、さまざまな実験により、科学的に証明されています。人と人の間はもちろんのこと、動物のあくびが人にうつったり、動物によっては人のあくびがうつったりすることもあります。

あくびがうつるのは本当だった! あくびがうつる理由を紹介

つまり、感情移入ができるほどの他人への関心と共感性があれば、小さな子どもでも、動物でさえも、もらいあくびをするのです。

あくびがうつったから、なぜあくびがうつるかを調べた。実家のねこがあくびをしているのを何度か見たことがあったが、そのとき自分はあくびをしていただろうか。

たまたま自分と誰かが同じタイミングで眠かったのではなく、あなたのあくびが誰かのあくびを誘発しているのです。

たまたま自分と目の前の誰かが同じタイミングで眠かったから、共感するのではないか。電車にのっているおじさんもさっきまで寝ていた道ばたのねこもみんな、あくびをしたときはたまたま眠い。

マイクチェック、マイクチェック

このところ、フリースタイルバトルの動画をたくさん見ていた。あたりまえだけど、どもったり言葉が出てこなかったりしても、誰もなにも言わない。サ上さんがだいたいいつもテレビ的な演出で負けるのがおもしろい。R-指定さんはほんとうにすごいと思う。番組には出てないけど呂布カルマも好き。フリースタイルとは無縁らしいD.Oさんは、高一のときに滝行を体験した秩父の山奥の民宿で知って驚いた。みんなキャラ付けというものをよく理解して実践している。

死ぬまでにタトゥーを入れてみたい。 https://youtu.be/wI9Bk6uedVo

たぶん、あなたは小説を読むことには興味がない。書くひとだから、そのひとがどのように書いているかを知りたいんだよ、と言った。

いぬのせなか座 2号 蔵出し

いぬのせなか座 2号 の詳細はこちら works|いぬのせなか座

先日、地点という劇団の『スポーツ劇』(作:エルフリーデ・イェリネク、演出・構成:三浦基、音楽監督:三輪眞弘、KAAT 神奈川芸術劇場他)を観ました。

話としては、戦時下に暮らすスポーツ選手やその家族、恋人、友人たちの長い(よくわからない、わかりようもない量の)モノローグがえんえんと続くもので、役柄はギリシア悲劇の登場人物たちがモチーフになっているらしいんですが、正直あんまりよくわかりませんでした。

演出家の三浦基さんが言っていたように、日本にはキリスト教というか一神教が遠いのと同じようにギリシアの劇作が遠いからとか、話の難解さについては、それこそが人間の難解さであり、わからないという根源的なもののあらわれだとかが言われると思いますが、お話の内容というよりは、舞台装置とか音響効果(というより音楽装置)とか、役者さんのからだの使い方に興味を持ちました。

舞台は床から天井まで伸びる急勾配の人工芝の坂であり、舞台から観客席を分け隔てるようにバレーボールのネットが横断していて、ネットを張るポールの根本にZAVASの赤いボトルが右端と左端に置いてあります。音楽装置コロスはオペラ席と言えばいいのか、観客席を囲むように中二階の右端と左端にいて、リレー走で使うバトンのような筒状の楽器を持っています。またそれぞれのメンバーは定められた入力先と出力先のメンバーをおのおの持っていて、音を出すタイミングを他のメンバーから引き継ぎ受け渡していくプログラムを実行しています。

役者さんは中盤くらいまでずっと、ひとりずつ反復横跳びをしながら長々としゃべります。一文は反復横跳びのリズムで組み立てられています。ある一文のセリフはセリフ自体の境目で区切られるのではなく、それを発声する役者さんのからだの動きによって制限されます。

反復横跳びのリズム、右にいったり左にいったりする動きのあいだにセリフのひとかたまりは埋め込まれなければなりません。また、反復横跳びを繰り返すうちに息切れしていく、その息切れもまたセリフを制限し、かつ役者さんの動きをも制限していきます。長回しのモノローグが終わると別の役者さんがしゃべりだします。さっきまでしゃべっていた彼や彼女らはクラウチングスタートの姿勢でしゃがんだり、寝転んだり(やはり相当疲れるからか、ほぼほぼみんな寝転んでいるのですが)、おそらくあらゆるスポーツの一瞬間で停止しており、次の役者さんが反復横跳びをし、動きしゃべりだします。現にいまそこでしゃべっている彼や彼女より、寝転んで肩で息をしているさっきまでしゃべっていた彼や彼女らのほうが気になってしまいます。腕や脚や肩が雄弁になにかを語っているのを私たちはよく見ようとする。

このような身体とセリフ自体のちぐはぐさ、ばらばらな動きがひとつの私として、また、ひとりの人間である私と役としての私が、それらのひとつの肉体としてそこにある。そもそも演劇それ自体が複数の私の集まりで構成されている。日記の話で言えば、見るからに、役者さんたちの動きはよく訓練されたものであることがわかります。上演中、長い時間をかけて行われた稽古での役者さんの蓄積が思い出される。同時に、どこかで見たことのあるようなスポーツ的な身体の動きが、それを見ている私たちの身体や歴史を思い起こさせる。あれは反復横飛びだと思ったり、テニスのラケットを振っているんだと思ったり、サッカーボールを蹴っていたり、アイススケートのダンスだったり、舞台がスキーのサマージャンプに見えたり、スノーボードハーフパイプに見えたり、バレーボールのネットだったり、バトミントンのネットだったり。

それらすべては、それを見ている私たちそれぞれに身近だったスポーツの経験やものごととのかかわりで見えてくるものになっています。そういう意味で、あの演劇は役者さんたちの日記であり、私たちの日記として見ることができたと思っています。

合宿

いぬのせなか座 2号 の合宿(通い)が終わった。あとは座談の収録が残ってる。

家に帰ってきて読んでもらっていて、2号 に載せる日記のなかに下の話を書こうと思っていたのを思い出した。

イルカの目を持つ人間の子どもたち。日々の大半を水中で暮らす海の遊牧民、モーケン族(タイ) : カラパイア

人間はこのように、かんたんに進化することができる。

書かれていないことがいくつもあるけど、それが書かれる筋合いはないと言っている。

日記なのでわりと気楽に書いたそれぞれの部分から、思ってもみないつながりを見つけて、「気がする」で終わるのがうざいと言っている。

すごくおもしろいような気がしてきたとも言っている。本だったら独立した紙面が続いていて、文章が長く続いているから一連のものとして読めるけど、紙としては断裂している。でも一枚の紙なら、日記のこの欠落が他に書かれたものと従属的ではないしかたで参照しあい存在できる、と言っている。

座談は別の紙にする、と言ったら、もっとでかい紙をつかえばいいじゃん、一枚の紙におさめたほうがいいと言う。むずかしい、と言うと、それなら展示しろ、と言っている。おもしろいと思う。このひとはひとつものが与えられるとすごくしゃべれる。