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アタマカラダ

アルフォンソ・リンギス「どう感じるか、どう見えるか」(『変形する身体』所収)より

私たちは、自分たちの心──目覚めていて、知覚したり思考したりする自分たちの心──の所在が、頭部にあるとみなすようになっている。

しかし

平均的なチベット人が行う瞑想訓練は、自我の所在を移動させることである。自我とは短期的で一時的な自己同一性であり、動きつつある観点である。自分の手を見るとき、私は自分の所在を眼に置いている。そして私は自分の所在を手に移動させ、そこから自分のことを見下ろす眼や顔を眺め、感じ、探るのである。瞑想の師が私に教えてくれたのは、肺に移行して、そこから自分を囲む肋骨を見て感じることであり、外部にある手や頭を見て感じることである。そうした手や頭は、私が空気を出したり入れたりするポンプ運動によって、駆動されているのである。

日中オフィスや工場で、問題を解決するために頭を働かせているとき、私たちが自我の所在を、頭に、つまり眼の背後、両耳の間に置いているとしても、夜にはこの所在地は移動している。私たちが見るどの夢にも、眼や、唇や、顎や、歯や拳が出演しているのではないだろうか?

というのも

眠る身体から私たちの心が離れ、幻影肢を生み出し、眼や顎やペニスやヴァギナを生み出すというわけではない。夢を見るということの本質は掻き乱されることであり、いやらしく、オルガスム的であること、変身しつつあること、放出しつつあることである。私たちの心ではなく、私たちの眼や、唇や、顎や、歯や、拳や、太ももや、ペニスや、クリトリスや、そしてヴァギナがさまざまなイメージを生み出しているのだ。それらのものが、夢を見ているのだ。夢が始まるそのとき、自我が頭蓋骨から移動し、分断された諸器官へと向かっていくのである。

たとえば

たとえば切断手術を受けた人は幻影肢を持つし、拒食症患者は太った自分自身を見ている。私たちの身体についての準視覚的な感覚を生み出しているのは、心の中にある、かつての活力を失った視覚化能力か何かではなく、身体の姿勢維持的ダイアグラム〔実際の行動に関する抽象的な見取図〕である。

踊ってばかりの国「アタマカラダ」

ベッドに横たわる身体の四肢は、重力によって定着している。姿勢維持軸はもっぱら眼の方向と焦点に向かって収縮していて、ただ闇夜の中に宙吊りになった不眠症の眼という、準視覚的なイメージを生み出している。性的な興奮が徐々に鎮まって身体が向き直るとき、身体の姿勢維持軸は運動用の四肢を組み立て直し、生殖器は身体イメージの連続性のうちに消え去る。ある身体の自己イメージは、抵抗に出会わないうちは広がっていき、陸の斜面を風とともに駆け下りたり、穏やかな川を泳いで下ったり、両腕を広げてスワン・ダイブしたり、夏の日差しの中をパラグライディングしたりする。このように収縮したり、破片となったり、膨張したりする、私たちの身体についての準視覚的なイメージこそが、私たちそれぞれの身体が広大な日の光の中で見る夢なのである。

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