『スポーツ劇』

スポーツ劇 見ました 安全装置であるネット(スクリーンまたは三途の川?)と芝生の坂の舞台が遊び場としていいなと思った次第です。

反復横跳びと謎の単位で振り回される腕(たまに足)と韻を踏むわけでもダジャレでもないことば は俗物的なものでありアクチュアルなものだった アクチュアルというのはオリンピックとか集団的自衛権とかではなくて(それはただの問題であって)そこに動く身体があるということがアクチュアルだった。

ゾーン=レーテル〔哲学者アルフレート・ゾーン=レーテル〕によれば、ナポリ人にとっては事物は壊れてはじめて機能しはじめる。このことが意味するのは、ナポリ人は事物が機能しなくなってはじめて、技術的な物を本当に取り扱いはじめるということである。それ自体としてはきちんと機能している手つかずの事物はナポリ人を苛立たせる、おぞましいものである。ともあれ、ちょうどいい場所に木片を差しこんだり、ちょうどいいタイミングで蹴りを入れたりすることで、ナポリ人は自分のちょうど望むとおりに物を働かせることに成功する。哲学者ゾーン=レーテルによれば、この振る舞いは最高の技術論的パラダイムを含意している。すなわち、本当の技術が始まるのは、人間が機械の敵対的・盲目的な自動性に対立し、機械を思いがけない領域上へとずらすときである。ナポリの街路でバイクのエンジンをクリームミキサーへと変容させていたあの少年のようにである。

そう考えるとセリフはわからないものとしてわかる感じで、ほんとうにわからないのは三輪眞弘さんの音楽装置だったり俳優さんの動きだった。

これら〔演劇における、俳優という生きた有機物とともに演じはじめる生きている物(ビオ-オブジェ)〕に応ずるのが、舞踊手の身体から離反して自分で演じはじめる手や足である。ここではもはや、物のシュルレアリスム的な転用におけるような、乗り越えるべき美的境界線などは問題にならない。問題となるのは身体の新たなテクノロジーである。というのも、そこでは身体が一人称で含意されているからである。そこでそのつど創造されるのは、身体と物とからなる新たなシステムである。そこで物が機能しはじめるのは、それ固有の機能を喪失し、身体とともに創造的な無差異の地帯へと入るときである。

ジョルジョ・アガンベン「来るべき身体」(『ニンファ その他のイメージ論』高桑和巳、慶應義塾大学出版会)