いぬのせなか座 2号 蔵出し

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先日、地点という劇団の『スポーツ劇』(作:エルフリーデ・イェリネク、演出・構成:三浦基、音楽監督:三輪眞弘、KAAT 神奈川芸術劇場他)を観ました。

話としては、戦時下に暮らすスポーツ選手やその家族、恋人、友人たちの長い(よくわからない、わかりようもない量の)モノローグがえんえんと続くもので、役柄はギリシア悲劇の登場人物たちがモチーフになっているらしいんですが、正直あんまりよくわかりませんでした。

演出家の三浦基さんが言っていたように、日本にはキリスト教というか一神教が遠いのと同じようにギリシアの劇作が遠いからとか、話の難解さについては、それこそが人間の難解さであり、わからないという根源的なもののあらわれだとかが言われると思いますが、お話の内容というよりは、舞台装置とか音響効果(というより音楽装置)とか、役者さんのからだの使い方に興味を持ちました。

舞台は床から天井まで伸びる急勾配の人工芝の坂であり、舞台から観客席を分け隔てるようにバレーボールのネットが横断していて、ネットを張るポールの根本にZAVASの赤いボトルが右端と左端に置いてあります。音楽装置コロスはオペラ席と言えばいいのか、観客席を囲むように中二階の右端と左端にいて、リレー走で使うバトンのような筒状の楽器を持っています。またそれぞれのメンバーは定められた入力先と出力先のメンバーをおのおの持っていて、音を出すタイミングを他のメンバーから引き継ぎ受け渡していくプログラムを実行しています。

役者さんは中盤くらいまでずっと、ひとりずつ反復横跳びをしながら長々としゃべります。一文は反復横跳びのリズムで組み立てられています。ある一文のセリフはセリフ自体の境目で区切られるのではなく、それを発声する役者さんのからだの動きによって制限されます。

反復横跳びのリズム、右にいったり左にいったりする動きのあいだにセリフのひとかたまりは埋め込まれなければなりません。また、反復横跳びを繰り返すうちに息切れしていく、その息切れもまたセリフを制限し、かつ役者さんの動きをも制限していきます。長回しのモノローグが終わると別の役者さんがしゃべりだします。さっきまでしゃべっていた彼や彼女らはクラウチングスタートの姿勢でしゃがんだり、寝転んだり(やはり相当疲れるからか、ほぼほぼみんな寝転んでいるのですが)、おそらくあらゆるスポーツの一瞬間で停止しており、次の役者さんが反復横跳びをし、動きしゃべりだします。現にいまそこでしゃべっている彼や彼女より、寝転んで肩で息をしているさっきまでしゃべっていた彼や彼女らのほうが気になってしまいます。腕や脚や肩が雄弁になにかを語っているのを私たちはよく見ようとする。

このような身体とセリフ自体のちぐはぐさ、ばらばらな動きがひとつの私として、また、ひとりの人間である私と役としての私が、それらのひとつの肉体としてそこにある。そもそも演劇それ自体が複数の私の集まりで構成されている。日記の話で言えば、見るからに、役者さんたちの動きはよく訓練されたものであることがわかります。上演中、長い時間をかけて行われた稽古での役者さんの蓄積が思い出される。同時に、どこかで見たことのあるようなスポーツ的な身体の動きが、それを見ている私たちの身体や歴史を思い起こさせる。あれは反復横飛びだと思ったり、テニスのラケットを振っているんだと思ったり、サッカーボールを蹴っていたり、アイススケートのダンスだったり、舞台がスキーのサマージャンプに見えたり、スノーボードハーフパイプに見えたり、バレーボールのネットだったり、バトミントンのネットだったり。

それらすべては、それを見ている私たちそれぞれに身近だったスポーツの経験やものごととのかかわりで見えてくるものになっています。そういう意味で、あの演劇は役者さんたちの日記であり、私たちの日記として見ることができたと思っています。