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世界のわたしたち

エラー発生の被疑箇所を正常に動作する資材で置き換えるという極めてシンプルな論理性に対して、不謹慎さ、倫理観の欠如及び悪魔的な超越等の指摘はナンセンスだが、そんなセンスのなさがこれから生きることになる親子には与えられないでほしいというのがイニシャルを選択する発信元のマスコミの倫理だ。

唯一ありうる問いとしては「わたしたちの子どもと言うとき、それを満たす要件とは何か」であり、そこから「『わたしたち』とは何か」という問いが明らかになってくる。アレントが『人間の条件』で引用していた「わたしたちのもとに子どもが生まれた」という聖書の一節。

人間事象の領域である世界は、そのまま放置すれば「自然に」破滅する。それを救う奇蹟というのは、究極的には、人間の出生という事実であり、活動の能力も存在論的にはこの出生にもとづいている。いいかえれば、それは、新しい人びとの誕生であり、新しい始まりであり、人びとが誕生したことによって行いうる活動である。この能力が完全に経験されて初めて、人間事象に信仰と希望が与えられる。ついでにいえば、この信仰と希望という、人間存在に本質的な二つの特徴は、古代ギリシア人がまったく無視したものである。彼らは、信仰を、非常に奇異なものであり、それほど重要でない美徳であるとして低く評価し、他方、希望とはパンドラの箱の幻想悪の一つにすぎないとしたのであった。しかし、福音書が「福音」を告げたとき、そのわずかな言葉の中で、最も光栄ある、最も簡潔な表現で語られたのは、世界にたいするこの信仰と希望である。そのわずかな言葉とはこうである。「わたしたちのもとに子供が生まれた」。

なにはともあれ、子どもは生まれてくる。生まれてくるのは、まず第一にこの世界においてである。わたしたちのもとに生まれた子どもだが、子どもが生きているのは世界においてである。この世界において生きているという点で、わたしたちはみな子どもであると言える。

この世界の子ども=わたしたち

この「の」という格助詞が気になっている。わたしたちはこの世界に所有されているのだろうか?数えきれないほどのわたしたちの制限事項は、所有する-される関係の証しなのかどうか。「わたしたちは世界のものである」または「世界はわたしたちのものである」と言うとき、この格助詞「の」は何を意味しているのか。なによりも、「わたしたちの世界」または「世界のわたしたち」とは?

世界初、DNA的に「3人の親をもつ赤ちゃん」のいま|WIRED.jp