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思ったこと

「最後まであきらめない」という務めは下手な管理者のもとでは超過勤務と結びつく。品質向上のために必要なのはコストと時間であるというマネジメントは、まず第一に無限のリソースなど存在しないという点で誤りである。リソースが無限に使用できるのであれば資本主義などなしですませることができたはずだし、自分たちの土地を奪われて追い出されることも、その報復による死も涙もなかった。成果物をあきらめなかったことの根拠は、限られたリソースの適用可能範囲を見極めるそのやり方にしか求められ得ない。

どれだけの時間が費やされたかでその仕事を見るということは、わたしにはどのような知恵もないと嘘をつくようなものである。頭のなかには電卓しかなく、目の前の物事にいちいち金額をつけて、周囲の人間は自分より多く金を払うのかどうかばかり気にしている。自分より金を持っていない者を見下し、自分より金を持っている者はその分だけ自分より偉いのだと錯覚している。時間もまたリソースだった。若者より老人の方が偉いから席をゆずるのか? 勝手に年功序列を敷き、老人に見下されていると自分を蔑み、かといって自分は若者でもないのだとひとり空回りするより、若さと老いを技術への習熟度と視野の違いに置き換えられないだろうか。いまこのわたしには、若い部分と若くない部分があって、「若かったわたし」はもうすでにわたしではなくなっている。

超過勤務と健康被害とのあいだには明確な相関関係があり、一般に過労死ラインと呼ばれる「月80時間以上の残業」を避けるべきという定量判断は、この管理体制では機能しなかった。定量判断とは、見えにくい成果を見えるようにするものではなく、見えにくいものを見ないままで判断するための道具でしかない。定量判断は知恵ではない。定量判断は絶対評価であり相対評価ではない。「わたしの残業時間のほうが多い」「わたしが若い頃はもっと働いていた」という主張は意味をなさない。あらゆる環境が異なるにもかかわらず、いったい何が比較できるというのか。

「いまの時代に適切でなかった」と言う。定性的に物事を見ている気でいるが、適切である時代などかつてあっただろうか。そこで言われている「適切」とは量的判断であって、定性的な性質はかけらもない。「定性判断」などという言葉は存在していない。定性的に物事を見るとは、ただそれに耳を傾けることであって、そこになんらかの判断が下される余地などない。このように悲惨な状況において耳を傾けるとき、出来事にショックを受ける以外に、なにか発言を差し挟んだり、それに対し意見を言うことができる者などいるのだろうか。

わたしたちは目にしたものについて語るが、それが語られるとき、つねに耳を傾けていなければならない。感情のおもむくままにしながら、ただいっさいの言葉を口にしてはならない。口をつぐむこと。なにかを口にした瞬間に見えないなにかが死んでいく。誰も知らない。わたしが耳を傾けているあなたにとってもそれは同じで、それは、相手の口からこぼれでる声のとなりで音を立てずに沈んでいる。そんなふうにわたしたちには思われる。

 

「死んでしまいたい」 過労自殺電通社員、悲痛な叫び:朝日新聞デジタル  http://www.asahi.com/articles/ASJB76CXTJB7ULFA033.html

長時間残業「自慢合戦」の無意味 電通新人の自殺で直視すべき問題 http://www.j-cast.com/2016/10/10280212.html

長谷川秀夫教授「残業100時間超で自殺は情けない」 投稿が炎上、のち謝罪 http://www.huffingtonpost.jp/2016/10/08/pro-hasegawa-talks-bout-dentsu_n_12411532.html?ncid=engmodushpmg00000004

 

追記

 

セクハラ及びパワハラがはなからなかったことになっている、月5hだけ制限を厳しくしたところで例外である特別条項が常態化していて月100hの超過勤務をなくすことはできない、組合や既存の制度はこの超過勤務の申請を承認するにしろ、申請がないことから知らぬ存ぜぬをとおすにしろ、あきらかに機能してない。この時間の消灯だけでは意味がない。電気が点いている時間だけで月150h以上の超過勤務が可能な計算になる、これでは「節電」以上の効果は見込めない。

 

電通本社 夜10時に一斉消灯 過労死自殺受け https://t.co/uldhEW9lqk