天啓

アガンベンは『身体の使用』を考えるにあたって古代ギリシャにおける主人と奴隷からサドマゾの倒錯を経てスピノザの自分を散歩につれてゆく=散歩する(中動態)に至る わたしはわたしの身体の所有者ではなく使用者である? いぬの散歩を思う

 

いぬの散歩をしたことはないが一般に主人はリードを握る側だろう しかしいぬにまかせて主人が歩かされているようすを見ることは往々にしてある 主人はいぬの世話をする 電信柱へのおしっこは水で流しうんちを持ち帰ることはマナーになっている いぬが元気でいることは家柄としてはかられている

 

ギリシャ語のクレースタイ/クレーシス これは基本的には「使う」と訳される これは、人が自分自身と取り結ぶことのできる関係において用いられる たとえば「情熱を使用する」は情熱は外に向けられるのではなく「情熱にわれを忘れる」ということを意味する それは態度で、ある生のありかたである

 

つまりクレーシスは「召命」 わたしはわたしをそのようなものとして構成する=生きる アガんべんは過去にこれをパウロ書簡から読み解いていた

 

わたしはわたしとわたしのいぬを散歩に連れていく=わたしたちは散歩する 散歩においてはわたしがわたしの身体を使用することは同時にいぬの身体を使用することと一体となっていて、というよりいぬが自身の身体を使用することが主人であるわたしの身体を使用することになる

 

いぬは生きていると同時にその身体を使用される いぬの存在を主人は引き受ける 引き受けるとは享受するということだ いぬは生きている 究極は、それだけでいい

 

ある祭りにおいて、祭りの期間中は主人と奴隷はみずからのその役割を逆転する いぬとわたしの逆転はありうるだろうか そもそもどちらがみずからを散歩につれていくのか いぬを散歩するのかわたしは散歩させられているのか

 

中動態ということに立ち返ればアガンベンのいうように使用することのできる身体を2つもつわたしが動作主として立ちあがる いぬとわたしの関係をそのように召命的に生きること

 

そのときいぬとわたしはなんであれかまわない生だろう いぬとわたしは散歩にいく