日記34

写真

リアルとは何なのか?「客観性」を揺さぶられる奇妙な古写真の数々:画像ギャラリー|WIRED.jp

 

これのタダ券をもらい、みにいく

MeCA (ミーカ)|メディアカルチャーを発信するプラットフォーム

 

以下おもしろかった順

couchというひとたちのTRACING SITESという映像作品

②Tad ErmitañoというひとのSpining Jimmy v. 2.0という映像作品

③Kawita VatanajyankurというひとのSERIES: TOOLS / WORKという映像作品

 

あとはアトラクションとして

④Guilliaume Marmin and Philippe GordianiというひとたちのTIMÉEという映像作品

 

④は暗い部屋に入るとこちらにむかって光が無数のレーザーポインターのようなものから放たれて、光に射たれる感覚を味わえるような仕掛けになっていた。

 

③はぺこ&りゅうちぇるみたいなポップな色の背景に吊るされたり寝転んだりしている女性がいろんな姿勢でかごをかかえていて、そのかごのなかに野菜が投げ込まれる、野菜はかごにぶつかって飛びちるんだけど、どこか汚くならずポップさを保っていて、現代のタイの女性が強いられている抑圧された状況を描いている。

 

②は台車の上にモニターがのっかっていて、映像のなかの男性が右にいったり左にいったりするたびに機械も右にいったり左にいったりする。映像のなかの男性は閉じ込められた部屋の中から出ようとして、右端と左端の壁を叩いたり蹴ったりするが、定点カメラはちょうど右端と左端の壁が見切れる位置におかれており、モニターの縁が壁に重なるよう調整されているので、映像のなかの男性はモニターの縁を叩いたり蹴ったりしているように見える。この機械はとても単純な仕組みで、モニターの右端と左端にとりつけられたセンサーが白から黒に反転するとそれに従って反転が認められた方向に車輪が動くという。それによって、モニターの向こうでのできごとがモニターの手前のわたしたちの世界に働きかけている、という感覚を与えることに成功している。

 

①は編集の過程が何重にも入れ子になって作品に内包されている。ある距離を水平に動いて撮影するカメラを公園や並木道に持ち込み、ひとつ映像を撮影する。その映像をいくつもの静止画に分割し、さらに静止画をある程度の大きさのドットに分割する。ある大きさのドットに分割された静止画を並べて、再度、映像を構成する。そうしてできあがった映像を、コルクを砕かずに並べてつくった手づくりのコルクボードに投影する。映像のドットがコルクの円形にちょうど対応しているように見える。その投影しているようすをさらに撮影し、少しずつ映像の開始ポイントをずらして水平に並べたモニターに出力する。鑑賞者は水平に並んだモニターにうつる映像を見る。水平に並んだモニターの右端から左端まである人物が歩いていくように錯覚する(それは余白が距離を抱え込むものであるということをわたしたちが知っていることにわたしたちが気づくという意味だろう)が、実際はそれほどの距離を歩く彼をカメラがとらえていたのではなく、その人はカメラのまえを一瞬だけ横切ったにすぎない。映像がもつ奥行きを分割し、画像の平面を水平と垂直に分割し、あらためて組み立てなおし、投影し、撮影し、さらに再生開始の時間をずらして空間にものとして配置している。いろんな「書き直し」を考えることができたので、これは使えると思った。