書物は〈箱〉だという。

〈箱〉のなかでは行と列が並べられている。行と列の覚え方は、行の右側の「チョク」というのが水平方向、列は同じようにつくりの「リットウ」が垂直方向、よって行と列はx軸とy軸に対応している。そう情報処理の試験で勉強したけど、タテ組の日本語書籍ではそうではないらしい。

本が〈箱〉だというのは、箱本を思い浮かべれば簡単だ。昔の本は箱に入ってるものが多い。威厳のある風を出したい本もだいたい箱に入っている。箱入り娘というのも似たようなものかもしれない。

鈴木一誌『重力のデザイン』より

ヘルタ・ミュラー『監視人が櫛を手に取る』は 、ふつうの箱に絵はがきが何十枚も収められたものだ。絵はがきには詩が描かれている。詩は、町の看板や本の表紙のことばなどが色つきの背景ごと切り出され、コラージュによって作られている。

山本浩司「記憶とアヴァンギャルド ヘルタ・ミュラーのコラージュ作品について」 DSpace at Waseda University: 記憶とアヴァンギャルド-ヘルタ・ミュラーのコラージュ作品について-

天体観測

目の前の海や流れ着いたこの島と太陽・星座との位置関係を読み取るか、あるいはGPSにより現在地情報を取得しようとするロビンソン・クルーソーと、排便後にケツを拭いたトイレットペーパーを見れないというバナナマン日村のエピソードが重なった。見えないものをいかに感覚するか、わからないものをどう受け入れていくか。どこまで細分化された中心からはじめればいいのか、どういう枠線で地図を切り取ればいいのか。経済的(節約)思考による考えなくていいことへのチューニングと信じること。

中学生のときすごく好きだったBUMP OF CHICKENが紅白に出たらしい。まだ見てない。 國分功一郎 無人島をどう生き延びるか?<言っておきたい!!2016〈幻冬舎plus会員のみなさまへの感謝企画〉> - 幻冬舎plus

The Best Offer

ビリーの描いた《ポートレイト・オブ・クレア》は一度はやり過ごされ、ヴァージルは目の前のクレアを連れ出すcollectことに注力する。クレアと愛しあうようになったヴァージルは、やがて彼女に自分のコレクションをさらけ出す。私の前にこんなに女性がいたのねと彼女は言う。我々と共に暮らし、ここを家にしてほしいと彼は言う。この愛し愛されている集まりcollectionに《クレア》が迎え入れられるとき、ヴァージルはすべてを失い、身一つで《クレア》を抱えて約束の場所に向かう。ヴァージルはカフェ《ナイト・アンド・デイ》でウェイターにこう言う。I'm waiting for someone. 彼はそこで昼も夜も思い出す。

ヴァージルがはじめから《クレア》を見ていればビリーの絵は贋作のままだった。クレアこそがただひとりの女性になるとき、ヴァージルの見初めた女たちはポートレイトになり、ビリーの描いたポートレイトは本物になる。だが《クレア》がヴァージルの女たちに連なる瞬間、女たちは贋作なのであり、《クレア》もまた贋作だということが露になる。

プレゼントとオートマタと《クレア》が、コレクションが連れ出されたあとにもヴァージルの家には残されている。それらはヴァージルを見つめて、わたしたちはヴァージルを見つめ、彼は彼の時間の堆積collectionになる。

プラネタリウム

わたしたちが魚の目で泳いでいるとき、南極は白夜と極夜を往き来している。凍てつく大陸の足下には湖が広がっていて、見上げると沈んでいく体を感覚する。水面が揺らめき、ぽつぽつと星々が瞬く。波はだんだんと薄らいでいく、無数の点滅が繰り返されている。波間がいつのまにか夜空になる。あちこちでそれぞれの光がひかり、いくつもの目がそれらを見つめている。紫色の雲が流れ、緑色の夕焼けが白い氷に反射する。体は水中に沈んでいく。天蓋が遠のき、わたしたちは宇宙に沈んでいる。すべての満天が星空か暗闇で埋め尽くされる頃に南十字座南極星になる。

夢を見た。彼女は隣で寝ているのに彼女が「ただいま」と言ってバイトから帰ってきた。ぼくは帰ってきたほうの彼女を追い払う。夢から覚めても彼女は隣で寝ている。ほとんどの場合このように彼女は隣で寝ているので、ぼくは隣で寝ている彼女を信じて帰ってきた彼女を追い払ったが、あとで、帰ってきた彼女を追い払う理由が見つけられなくなった。

他にも幽霊をたくさん見た。みんな見た目はふつうだが、生きている人間とは距離をおいて歩いている。たとえば、高架下の歩行者専用のトンネルで、少女(高校生くらい?)は手を繋ぐ下の二人の妹のあとをつけていた。三姉妹なんだからみんなで手を繋げばいいのに、と思ったぼくは少女の手をとっていて、すると少女はなにか言った。なにか言って、よくある幽霊のイメージのうちのひとつ、立体映像のように右腕を物が通過するさまを見せてくれた。少女は笑って、ぼくがつかんだ感触を確かめるように右手でぼくの首を絞めるふりをして、ぼくはきっとやれやれという顔をした。少女がなんと言ったかは忘れてしまった。

足がある、ということを考えていた。手のように簡単に触るわけにはいかない。少女も気づいたようだった。彼女の足に強い視線が注がれていた。気持ち悪い、というようなことを言われた。

「箸の持ち方って誰に習った?」ぼくは彼女に訊いてみたことがあった。

「おかあさんか保育園の先生だと思う」と彼女は言った。ぼくは誰に習ったんだろう。もし母親に習っていたのだとすると、息子がおかしな箸の持ち方で何年間も目の前で食事をしているのに一言も注意しないのは変だ。もしかすると、息子が気にも止めないやり方で矯正しようと努めてくれていたのかもしれない。ぼくは気づかなかった。いつだったか両親が離婚して、それからは母親といっしょに食卓を囲むということがほとんどなくなってしまったため、箸の持ち方のことはしばらく忘れられていた。ぼくはぼくで、この持ち方は他のひとにはできない、ぼくができるのは手先が器用だからだ、などと思っていたので、自分でなおすという気はまったくなかった。だからって、誰にも指摘されてこなかったというわけではないはずだ。

「年少さんのときに習うのかもしれないね」と彼女は言った。たしかに、こども教室に通っていたぼくは年中から幼稚園に入った。でも、年中でも年長でも注意されたことがあったのかどうか。ぼくとしても、当時の自分がどのような言葉をしゃべっていたか、周りからどのように語りかけられていたのかということについてははっきりとしたことはなにひとつわからず、思い出せるのは、はじめて箸の持ち方ということについて自分がなにか考えたとすれば、小学校一年生のときに教室の壁に貼ってあったポスターだった。そこには正しい箸の持ち方が描かれていて、ぼくはその正しい持ち方をイメージしてみたものの、手元に箸がなかったので再現することもできず、掃除の時間が終わったので掃除用具をかたして、すっかり次のなにかに心移りした。その日、家に帰ってからの夕食の時間、次の日の学校での給食の時間にはポスターのことはすっかり忘れられてしまって、それ以降、そのポスターも見かけなくなった。

小学校5年生の終わりまでの何年間か、いつから始まったのか思い出せないが、たしかに毎週火曜日と木曜日にスイミングスクールに通っていた子どもの頃のぼくは、すっかり泳ぎが得意になって、「かつてあなたは魚だったよ」と言われていい気になっていた。子どもながらに、その主張には説得力があると感じていた。魚の鰭が進化して人間の手ができたのだと図鑑に書いてあったし、手は水を掻くのにあまりに適していたため、つい最近まで自分は魚だったと簡単に考えることができた。鰭が手のように開いたり閉じたりするさまを図鑑と見比べているあいだに食卓の焼き魚は冷めて、母親によってすっかり骨が取り除かれてしまうので、ぼくは大学生になるまでひとりで焼き魚を食べることができなかった。

また別の日には「海坊主みたい」と言われていい気になった。プールでは向かうところ敵なしだった。事実、流れるプールでは流れに逆らって泳ぐことができた。手を使わずに泳いだり、足を使わずに泳いだりして、より海坊主っぽい気分になったりした。いま、どこまでできるかわからない。