ある日

目が覚めると電車のなかだった。通勤の途中だった。南砂町から浦安までの車窓だ。朝はいつも快速に乗るので現在地はあやふやだった。周囲の建物が低く、天気がいい日も悪い日も見通しがよかった。川が大小三つある。ひとつは浦安の向こうだったかもしれない。なかには船が泊めてあるものもあって、おそらくもっと早い朝の時間に漁を終える。魚が泳いでいるところを想像した。

今日は天気がよかった。ここ二三日、目的地に着くまでぼうっと空を見ている。綿雲が止まって見えたのは、あるいはずっと電車のあとを追けてきていたのは、昨日だったか今日だったか。これを書いているいまは水面に跳ねる魚を思っている。実際に見たことはないと思う。あったかもしれない。窓の向こうに伸びる水面から一匹の魚が飛び出すさまを想像した。光の反射でまぶしくてよく見えなかった。

アタマカラダ

アルフォンソ・リンギス「どう感じるか、どう見えるか」(『変形する身体』所収)より

私たちは、自分たちの心──目覚めていて、知覚したり思考したりする自分たちの心──の所在が、頭部にあるとみなすようになっている。

しかし

平均的なチベット人が行う瞑想訓練は、自我の所在を移動させることである。自我とは短期的で一時的な自己同一性であり、動きつつある観点である。自分の手を見るとき、私は自分の所在を眼に置いている。そして私は自分の所在を手に移動させ、そこから自分のことを見下ろす眼や顔を眺め、感じ、探るのである。瞑想の師が私に教えてくれたのは、肺に移行して、そこから自分を囲む肋骨を見て感じることであり、外部にある手や頭を見て感じることである。そうした手や頭は、私が空気を出したり入れたりするポンプ運動によって、駆動されているのである。

日中オフィスや工場で、問題を解決するために頭を働かせているとき、私たちが自我の所在を、頭に、つまり眼の背後、両耳の間に置いているとしても、夜にはこの所在地は移動している。私たちが見るどの夢にも、眼や、唇や、顎や、歯や拳が出演しているのではないだろうか?

というのも

眠る身体から私たちの心が離れ、幻影肢を生み出し、眼や顎やペニスやヴァギナを生み出すというわけではない。夢を見るということの本質は掻き乱されることであり、いやらしく、オルガスム的であること、変身しつつあること、放出しつつあることである。私たちの心ではなく、私たちの眼や、唇や、顎や、歯や、拳や、太ももや、ペニスや、クリトリスや、そしてヴァギナがさまざまなイメージを生み出しているのだ。それらのものが、夢を見ているのだ。夢が始まるそのとき、自我が頭蓋骨から移動し、分断された諸器官へと向かっていくのである。

たとえば

たとえば切断手術を受けた人は幻影肢を持つし、拒食症患者は太った自分自身を見ている。私たちの身体についての準視覚的な感覚を生み出しているのは、心の中にある、かつての活力を失った視覚化能力か何かではなく、身体の姿勢維持的ダイアグラム〔実際の行動に関する抽象的な見取図〕である。

踊ってばかりの国「アタマカラダ」

ベッドに横たわる身体の四肢は、重力によって定着している。姿勢維持軸はもっぱら眼の方向と焦点に向かって収縮していて、ただ闇夜の中に宙吊りになった不眠症の眼という、準視覚的なイメージを生み出している。性的な興奮が徐々に鎮まって身体が向き直るとき、身体の姿勢維持軸は運動用の四肢を組み立て直し、生殖器は身体イメージの連続性のうちに消え去る。ある身体の自己イメージは、抵抗に出会わないうちは広がっていき、陸の斜面を風とともに駆け下りたり、穏やかな川を泳いで下ったり、両腕を広げてスワン・ダイブしたり、夏の日差しの中をパラグライディングしたりする。このように収縮したり、破片となったり、膨張したりする、私たちの身体についての準視覚的なイメージこそが、私たちそれぞれの身体が広大な日の光の中で見る夢なのである。

HD アルプスの少女ハイジ OP

古文

が苦手だった理由がわかった

春はあけぼの やうやう白くなりゆく山ぎは 少し明りて紫だちたる雲の細くたなびきたる

夏以降のをかしを春がすでに引きずっているからだ

二階堂ふみ×最果タヒ「わからない」を肯定する二人の言葉談義 - インタビュー : CINRA.NET

ケネディ

外国のひとが急に大声でしゃべりだしたのでなにごとかと思って見たら見ず知らずのひとにハッピーニューイヤーマイネームイズケネディドゥユーリメンバーミー?とまくし立てている

見ず知らずのひとは英語が得意なようで堂々と相対していた ケネディは近くのバーで働いているようだった

書物は〈箱〉だという。

〈箱〉のなかでは行と列が並べられている。行と列の覚え方は、行の右側の「チョク」というのが水平方向、列は同じようにつくりの「リットウ」が垂直方向、よって行と列はx軸とy軸に対応している。そう情報処理の試験で勉強したけど、タテ組の日本語書籍ではそうではないらしい。

本が〈箱〉だというのは、箱本を思い浮かべれば簡単だ。昔の本は箱に入ってるものが多い。威厳のある風を出したい本もだいたい箱に入っている。箱入り娘というのも似たようなものかもしれない。

鈴木一誌『重力のデザイン』より

ヘルタ・ミュラー『監視人が櫛を手に取る』は 、ふつうの箱に絵はがきが何十枚も収められたものだ。絵はがきには詩が描かれている。詩は、町の看板や本の表紙のことばなどが色つきの背景ごと切り出され、コラージュによって作られている。

山本浩司「記憶とアヴァンギャルド ヘルタ・ミュラーのコラージュ作品について」 DSpace at Waseda University: 記憶とアヴァンギャルド-ヘルタ・ミュラーのコラージュ作品について-